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入居企業インタビュー#10 合同会社販路開拓サポート 小地沢 俊介さん

合同会社販路開拓サポート
代表 小地沢 俊介

岩手県出身。コンサル会社を経験した後、全国で生産者とバイヤーを繋げる同社を設立。現在は12市町村移住定住支援センターにて起業支援金申請者のサポートも行う。

Q1. 販路開拓サポートとはどのような企業ですか?

商品・店舗開発からマーケティング、営業、さらには人材支援といった多岐に渡る領域で企業や団体の事業活動をサポートする会社です。

中でも、自分の足で情報を収集し、需要と供給を繋げる「地上戦のマーケティング」を大事にしています。

食品・工業製品・人材などが必要というお客様から「いつ・何が・どのような状態で必要なのか」というニーズを聞き、それに合うものを提案するのがサービス内容です。

Q2. 企業を立ち上げた経緯を教えてください。

大学時代のアルバイトから現在まで、あらゆる経験が今の仕事に繋がりました。

まず、大学時代はスーパーで全国各地から野菜を仕入れるアルバイトをしていました。多くのスーパーでは、何をどこから仕入れるかを1か月ほど前もって決定し、店頭に並ぶ直前に実際に仕入れを行います。

僕はより良い商品を安く仕入れるために、仕入れ先の人や物流関係の人などと仲良くなり、“どこの野菜がどれくらいいい商品か”、“今年はどこの野菜が安いか”などの「情報」を市場場内の入札担当者や商材を持ち込むトラックドライバーから必死で聞いて回りました。

この「現場情報を足で稼ぐ」という経験が今後の自分の仕事の土台になっていきます。

大学卒業後は、コンサルタントの仕事をしたいという思いから、まずは地元の岩手の商工会連合会の経営指導職員として就職。

岩手県全エリアの小規模〜中小事業者の経営支援に携わり、その3年後、経験値を上げるため東京の大手コンサルティング会社に転職しました。

コンサル会社では新規事業部に配属され、最初は住宅メーカーやカーディーラーの受注率を上げる仕事をしていました。

ここでも、職場の仲間同士で夫婦のふりして様々な展示場を回る(ミステリーショッパー)などして、“どういう営業トークをしているのか”や、“メーカーや製品ごとの強みや弱み”などの「情報」を自分たちの足で集めました。

そして、集めた情報からどのようなお客さんがどのようなものを求めているのか分析します。

当時、周りにはただ高いものを売ろうとする社員もいましたが、僕はお客さんの生活環境や家族構成などからお客さんが本当に求めているものを判断し、それに合わせたものを提案することで成績を伸ばすことが出来たのです。

その後、各種補助金を活用して地方の中小企業の支援をする会社に入社し、全国の地方企業を回る生活を約2年間行いました。

その会社がニュージーランドに移転するのを機に、日本で展開していた仕事は僕が引き継ぐ形で、独立して会社を立ち上げました。それが、自分がそれまで経験してきた「地上戦のマーケティング」を強みに企業支援を行う「合同会社販路開拓サポート」です。

Q3. 販路開拓サポートでは具体的にどのような仕事を行ってきましたか。

最初は東京で地方の特産品を売る商談会のコーディネーターから始まりました。商談会ではバイヤーに商品を試食させて資料を渡すだけでは受注になかなか繋がらないため、「受注ができる」コーディネーターが必要とされていたのです。

ここでは、スーパーの仕入れのアルバイトの経験も活かしてバイヤー側の状況を推測したり要望を直接聞いたりし、それに合うものを提案することで受注に繋げました。

特に、取引が継続されやすい飲食店やホテルには生の食材を提供するだけでなく、調理現場やシェフが調理・加工をしやすい「ペースト状にする」などの加工も請け負うことで受注率を上げましたね。

それから、地域の業務をする中で全国各地で道の駅や産地直売店を立ち上げる時のコーディネートや赤字となった道の駅の経営改善の依頼を受けるようになりました。

さらに、地方では食品に限らず、国体などの大規模なスポーツ大会で地域のお土産作りや選手・父兄のおもてなしをコーディネートする仕事も受けていました。

このようにして、震災前までは1年で130を超える企業や市町村を支援した年もあり、結果、47都道府県全ての自治体で支援業務を実施することができました。

東日本大震災当時は、首都圏のバイヤーを連れて岩手に商談で来ていましたが、地震がくるまさに20分前に陸前高田市を車で抜けていたので生き残ったんです。

被災地はハード面が全て流され、これまでの販路も全て失ってしまった状態です。お店や工場の立て直しから始まって、商品開発や販路の構築を必死で行いました。

そんな状況から、地元が岩手なこともあって、震災後10年間は主に被災した岩手や宮城の企業の復興コーディネーターを務めました。

国体のコーディネーターをしていたことから声がかかり、1年間休職して東京オリンピックパラリンピック競技大会組織委員会のチームに合流していた時期もあったりと、様々なプロジェクトに関わりながら過ごしていました。

Q4. OICに入居した理由を教えてください。

まず大熊町に移住した理由ですが、オリンピックが終了した後、コロナ禍が続いており地方の仕事が無くなってしまったんです。

被災地の復興に関わりたい気持ちもあり悩んでいたころ、浜通りのニュースを聞く機会がありました。岩手・宮城で企業復興の仕事をしていた10年間、自分自身も定期的に状況を知りたいと考え、富岡町あたりから宮城県亘理町までの道路を何度も車で通ったことを思い出しました。

この地域は現在復興が進み、町が立て直されてきているところですが、企業の参入はこれから。

であれば、これまでの経験から自分にできることがあるのではと思い、「地上戦のマーケティングを実践する場所」として大熊町への移住を決意しました。

移住後は12市町村支援センターにも籍を置き、起業支援金の伴走サポート担当として約20社の事業計画作成のサポートを行いました。ビジネスプランを一緒に練り、成長に合わせて製品の展開を考えていますが、学生時代から通じて培ってきた「自分なりの見通し」をここで活かしています。

そして、OICでも、アーリーステージの企業が増えていく中で人と人との関わりで商圏を見出す「地上戦のマーケティング」ができる人が必要ではないか、そして自分はその役割を担えると思い、入居に至りました。

普段コワーキングスペースや打ち合わせの場所として利用させていただいていますが、OICには若い人の出入りが多く、私自身もいろんなことに気づかされますし、若い人たちの移住先として大熊町を選んだ思いや新しいチャレンジの意識の高さに日々驚かされています。

自分自身、とても良い出会いが出来ていると感じていますし、何よりもこの大熊町に移住した決断が間違いでなかった事を今改めて実感しています。

Q5. おすすめしたい〇〇を教えてください。

この近辺であれば茨城の常陸太田、常陸大宮の道の駅はお洒落ですね。いろいろ気づきを得られる物の売り方と店構えをしています。奥久慈のほうにある山合いの日帰り温泉もいいですね。

別の地域でもよければ、一度は長崎の五島列島や、島原に行くことをお勧めします。歴史的な戦もたくさんあった地域ですが、素麺などの色々な特産品があります。

また、島の周辺で雲仙普賢岳の大災害があって、そこを見事に復興させた歴史も全部わかります。あとみかんがとても安いですよ。笑

Q6. 普段はどのような生活をしていますか?

12市町村移住支援センターでの業務として、起業支援金の申請の人たちのサポートや事業計画づくりをしています。打ち合わせ等でOICの会議室を使ったりもしますし、企業を訪問したりしています。

プライベートでは道の駅の立ち上げを数多く経験していたこともあり、地域の道の駅をチェックして回っています。甘いものに目がないのでご当地のソフトクリームやスイーツ系は必ずチェックしますね。

Q7. あなたにとっての福島県、大熊町とは?

この町が自分の人生にとっての「最後のビジネスの狩場」だと思っているので、これまでの人生の経験・スキルを福島・大熊で全て出し尽くしたいと思います。

50歳を過ぎると、これまでよりも周りの人の成長を見届けることにやりがいを感じるようになりました。

起業支援金事業などを通じ、移住して起業を行う方の起業に関わる伴走支援を行うことはもちろん、色々な形で入居企業や若い移住者の人たちにお手伝いができればいいなと思いますし、自分がOICにいることで、声をかけてくれる人が増えたら嬉しいです。

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